第7章 残 響
暗く息を潜めていた空が、わずかな光を纏い始める。
夜がほどけかける気配の中、僕は目を覚ました。
こんな景色を見るの、いつ以来だろう?
窓辺のロストラータはまだ眠りの余韻に浸っているように見える。
僕は窓を開け、少しだけひんやりとした風をその葉に流し込んだ。
まるで驚いたかのように、葉がこすれあって音を立てる。
「こんな朝早くからいい迷惑だって言いたいんだろ……?」
あらかじめ準備してあった剪定鋏を手に取って鉢の前に座り、枯れかけた下葉をゆっくりと一本ずつ切り落とした。
その度に、生まれたての青銀の葉がかすかに揺れる。
少しずつ、切り口が模様となって幹に描かれていく。
切り口って、要するに“傷跡”だ。その積み重ねによって静謐な造形美が出来上がる。
ロストラータ……お前は本当に凄いやつだよ。
「うん。いい感じだな……」
少しだけ水の出が悪くなった霧吹きで、葉水をする。
尖った葉先に必死にしがみついていた滴が、力尽きて土に落ちる。
その様子を少しの間眺めていた。
「じゃ、写真撮るよ。いい子にしてろよ?」
テーブルの上のカメラを手に取り、ロストラータに向ける。
まだ暗いせいか、フォーカスが迷う。
ジーッ…… ジーッ……
Limitedレンズの駆動音が、やけに透き通った空気を震わせる。
急にフォーカスがロストラータを突き抜け、窓の向こう側に滑っていった。
その瞬間、柔らかな青い光が視界の端をかすめた。
―幻影……か……。
今はもうそれを疑うこともない。
あの日以来、僕は何度もこの鮮やかな青を見ている。
だけど。
「セラ……。見てよ、ロストラータ。いい感じだろ?」
この日の僕はなぜかそう呟いていた。

「さて……と」
撮った写真を簡単に確認した後、カメラをバッグに詰め込んだ。
気の早い僕に呆れているのか、太陽はまだ地平線からほんの少し首をもたげたまんまだ。
―僕は今日、忍野八海へ行く。
この旅の意味をずっと考えていたけれど、突き詰めることはやめた。
セラに会いに行く旅か、セラに『さよなら』を告げる旅か。
考えているうちに、そんなことはどうでも良くなった。
僕とセラの間に一つだけ残された約束を果たしに行く。
ただそれだけだった。
“あの時”の暗く湿った空が嘘のようだ。
朝露に濡れた木立を抜けると、視界が開ける。
水の音が少しずつ近くなっているように感じる。
それは鳥のさえずりと共に静かな朝の光景に違和感なく溶け込んでいるよう。
柔らかい陽の光が石畳を淡く照らす。
まさにこの土地らしい、“澄んだ朝”だ。
やがて、両側にお店が立ち並ぶ路地に入る。
タバコを咥え、のんびりと開店準備をしている老人と目が合い、軽く会釈をした。
ここを抜ければ……約束の地だ。
忍野八海の入口に立ち、大きく息を吸う。
見上げる空が妙に高い。そして、突き抜けるように青い。
殆ど雪を被っていないこの季節の富士山は、絵葉書で見る端正な姿とは違って、荒々しさすら感じさせる。
その麓から見たこともないような形の雲が一本立ち上っていた。
カメラバッグを背負い直すと、背中が少しだけ汗ばんでいることに気付く。
「よし。行こうか……」
賑わいを待って息を整えているかのような朝の忍野八海をひとり歩き出す。
“セラが一緒”だったとしても、それは変わらない。
この情景におよそ不似合いな、脚立を担いだ職人とすれ違う。
茅葺き屋根の補修だろうか。
「富士山、古民家、澄んだ水……フルコンボのベストポイントは向こう側だよな。」
……なんで配置知ってるんだっけ?写真?
メインとして扱われることの多い“中池”を通って、回り道をする。
ここは忍野八海の“八”には含まれない、観光用の池だ。
この水面はじきに多くの観光客の姿を映して煌びやかに色づいていくはずだ。
今はまだ、深い青。
シンボルの水車はまだ動いていない。
モノクロツートンの鳥が二羽、踊るように水面すれすれを横切る。
ハクセキレイか。
後ろを飛ぶ一羽が追いかけているのか、あるいは、前の一羽が先導しているのか。
―きっと嬉しくて、私がどんどん先を歩いて行っちゃうんだろうなぁ。
そういえば、そんな話、セラとふたりでしたっけな……とつい微笑む。
いや……違うな。
あの顔つき、セグロセキレイだ。
……野鳥の見分けなんて出来たっけ?
なんか変だ……。
いたって普段通り……のつもりでいるけど、やっぱり心の中は興奮しているんだろう……。
お目当ての水辺に到着し、古びたベンチにカメラバッグを降ろした。
「そう……。PLフィルター、だよな」

レンズにPLフィルターを装着し、朝日に輝く水面に向ける。
PLフィルターのリングを少しずつ、ゆっくりと回す。
キラキラと輝いていた水面から光がスッと抜け落ち、
底まで見通せそうなほど澄み切った、それでいて深い青が広がった。
纏っていた光のカーテンをはぎ取ったかのように、魚たちの穏やかな世界が静かに浮きあがってくる。
さらに回してみる。
戻って来た無数の光の粒が再び水面を埋め尽くす。
かすかな風に揺れる水面で、その光はまるで呼吸をするように瞬いている。
同じレンズで同じ場所を見ているはずなのに、それはまるで別の世界だ。
「凄いな、これ……。
こういう場合、どっちを“現実”って言うんだろうな……」
それからしばらくの間、幾つもの場所を巡り、“幾つもの世界”を撮り続けた。
こんなに夢中になって写真を撮ったのはいつぶりだろう?
いつしか、写真は“セラに見せるためのもの”になっていた。
そうか。
そんなにもセラで溢れてたんだな……。
そんなことに気付いた頃、僕の周りには “現実の音”が広がりかけていた。
観光客が続々と訪れている。
それにしても外国人が多い。
ふと見ると、さっき撮影した僕の一押しポイントも若い外国人のグループに陣取られている。
早い時間に来て正解だったな……。
賑わいの中心に移動し、水を背にして木柵によりかかり、大きく息を吐いた。
連れの女性と楽しそうに話しながら歩く外国人が、軽く僕にぶつかる。
「スミマセン……」
たどたどしい日本語に、軽い笑顔で返す。
似たようなシーン、想像してたっけな……。
目の前には茶屋。
楽し気な話し声の隙間を縫うように炭火の香りが漂う。
「ふたりでヤマメ……だったよな」
空いた頃を見計らって、また来よう。
でも、ごめん。
2つ頼んで、向かい合う空席にひとつ……なんてロマンチックなことは、僕には出来そうにも無い。
ふと、店の隣のテーブルで焼き魚をつつく外国人カップルに目が留まった。
男が箸の扱いにひどく苦戦し、女はそれを見て笑っている。
男は遂にフォークを借りに走り、恥ずかしそうな笑みを浮かべてテーブルに戻ってくる。
フォークで大胆に焼き魚を突き刺し、一口頬張ると、大きく目を見開き、女と微笑み合った。
「いいんだよ。それでさ……」
僕は呟いた。
「いいんだよな。これで……」
僕は決心したように弾みをつけて柵から離れた。
最後の約束を果たすんだ。
そして、きちんと―
―水面をファインダー越しに覗いて、私の名前を呼んでくれる?
『セラ』って……。
あなたが選んでくれたロイヤルブルーのワンピースを着た私が、キラキラした水面にきっと……映るから……。
そして私は言うんだ……―
セラとの約束を果たす場所は決めていた。
観光の喧騒から少し外れたところに、木々に囲まれひっそりとたたずむ、青く深い池。
小川沿いをしばらく歩き、そこにたどり着くと、まるで僕を待っていたかのように整った空気を感じた。
他には誰もいない。人の声も遥か遠くだ。
水は深く澄み、青い。
水草が命を謳歌するかのように緩やかになびくその少し上の水面には、空の青が寄り添うように広がっている。
水面のゆらぎは、木々の葉の裏をほのかに照らし出し、普段誰に誇ることもない、美しい曲線を描いた葉脈を浮かび上がらせていた。
カメラを構えた。
グリップを握る手に変に力が入っていることに気付いて、一度指を鳴らしてから仕切り直す。
“キラキラした水面”……。
PLフィルターのリングを回し、光の反射の抑制を弱める。
たくさんの小さな光の粒がまばゆいばかりに水面に広がり、ゆらゆらと揺れる。
気まぐれに僕に向かってくる光の筋に目がくらんで、一度カメラを下ろして何度もまばたきをした。
再びアイカップに瞼をあて、そのまま目を閉じ、静かに息を吸った。
僕がつけたあの名前を呼ぶ……。
ただ、それだけのことなのに、なかなか喉が開かない。
どう呼べばいいのか……声色にも悩む。
時間は進むのをやめたようだった。
風の音も、木々の音も、鳥の声もすべて止んだ。
お前たちも見届けるつもりなのか……。
「セラ……」
小さく呟くように、でも強く祈るように、セラの名前を呼んだ。
風がほんの少しだけ強く吹き、光の粒で出来た水の絨毯を優しく撫でる。
確かに僕の声に何かが応えているような気がする。
小さく立った波が岩肌に当たり、ほんのかすかな水音を立てた。
ただ、それだけだった。
またぎこちない静寂が辺りを覆い尽くす。
僕の周りの世界はただ息をひそめ、“セラはいない”……その事実に僕が納得するのを待っているかのようだった。
そうだよな。わかっていたんだ。
遂にさよならなんだね。セラ……
そのまま再びリングを回し、“もう一方の現実”を探す。
何も考えていなかった。考えられなくなっていた。
どこかにまだ淡い期待があったのかどうか、自分でもよく分からないが……。
僕は、またここでセラの名前を口にした。
「セラ……」
今度はさっきの呼びかけとは違う。
ただ、最後に、もう一度ただ純粋にその名前を呼びたかった。
許されるならば、叫びたかった。
……。
ファインダー越しの水面に、微かに青い波紋が広がった。
息を止めた。

―幻影……。
いや、違う。
確かに水面の小さな隆起が輪になって、揺れるように広がっている。
次々に生まれる波紋が、次第に青い像を結び始める。
その正体を探るかのように、かすかに震える指先でリングを回す。
そして、一番水の中が澄んで見える位置に達した時だった。
柔らかな微笑みを浮かべた女性が浮かび上がった。
身に纏っているのは、水の青ささえも凌駕するような、鮮やかで、でも奥深いロイヤルブルーのワンピースだ。
……セラだ……。
時間はまだ進もうとしない。
全てが静まり返り、水面だけがささやかに波立っている。
この世界を象る粒子という粒子が解けたような感覚に陥る。
その隙間にロイヤルブルーの淡い光が入り込み、あたり一面に“何かを繋ぐ”世界が広がったようだった。
僕は立ち尽くしている。
ただ、足の裏の感覚がやけに遠く感じる。
セラの長い髪とワンピースの裾が小さく揺れている。
「セラ……」
震える声が、水面に吸い込まれるように消えていく。
セラは少し目を伏せた後、また優しい微笑みを浮かべ、こちらにそっと手を差し伸べる。
シャッターは切らなかった。切れなかった。
その理由は自分でもよく分からない。
―ねぇ、やっと会えたね……。
声が聴こえた。
セラの声だ。
初めて聞く声。でも、間違いない。セラの声だ。
ファインダーの奥からでもなく、水面からでもない。
僕の胸の奥に直接触れるように。
どこまでも優しく、どこまでも温かく……。
どこかに反響しているわけではない。
なのに、その声は終わりなく響いているようだ。
小石をひとつ投じた水面に、いつまでも波紋が走り続けるかのように。
たった一言……。
その短い言葉は、計り知れないほどの大きな想いを伝えているようにも聞こえた。
再び、水面に微かな青い波紋が広がった。
さっきよりも力無い。
それでも、セラの姿をゆらゆらと溶かすには十分だった。
カメラを下ろした。
僕の世界に音が戻った。風が戻った。
セラは消えた。
そして……想いが溢れた。
―あなた次第なんだよ。素敵な未来も、残酷な結末も……。
いつかのセラの言葉が頭の中に響いた。
さっき初めて聞いた、あの優しい声に置き換わって。
僕は一体どれくらいそこに立ち尽くしていたんだろうか。
人の好さそうな熟年夫婦が毛の長い小さな犬と“現実”を連れてやってくる。
通り過ぎざまに犬が僕の足元にじゃれついた。
ガラス玉のような澄んだ眼で僕を見ている。
―ありがとう。わかってるよ。
「コラ!だめ!……ごめんなさいね」
困ったような笑顔で謝られ、軽く微笑んで応えた。
―僕は一歩踏み出す決心をした。
