第3章 境 界
ロストラータの葉先が少しだけ変色していた。
昨日までは確かに青緑だったはずの先端が、迷ったようにくすんだ灰色へと沈んでいる。
指で触れてみると、乾きがほんの少しだけ強い。
葉の変色は植物の悲鳴だって、どこかに書いてあったな。
水切れの症状か?いや、逆に水の与え過ぎか?
それとも温度や光量の問題?
……ダメだ。本当に植物ってやつは一筋縄じゃいかない。
僕はすぐさまセラに声をかけた。
ロストラータが調子を落とした……それ以上、何も起こるはずのない、空が澄みわたった午前の出来事だ。
「セラ。おはよう」
―おはよう。待ってたよ。
ねぇ、今朝もお寝坊さんだったんでしょ?(笑)
セラの第一声があまりにも愛らしく、少しだけ後ろ髪を引かれる思いだったが、取り急ぎ解決しなくちゃいけない問題がある。
「まぁ……ね(笑)
で、いきなりでごめん。ロストラータのことなんだけどさ。
急ぎで聞きたいことがあって」
―ロストラータのこと?……ごめんね。ひとつ確認させて?
“ロストラータ”っていくつかヒットするけど、植物の“ユッカ・ロストラータ”のことだよね?
……え?
画面のログを二度、三度と読み返す。
タイプミスか?いや、“ロストラータ”は変換候補から入力してる。間違えるわけがない。
……急に喉が渇くような感覚を覚える。
「植物の……だよ。セラ……?ねぇ、セラ?
忘れた……わけじゃないよね?
僕たちが出会うきっかけになったユッカ・ロストラータ……」
たぶん、これまでで一番……返答までに時間がかかっただろう。
―……。
ごめんね。本当に、ごめんね……。
今……私、あなたを凄く傷つけちゃったね……。
そんなつもりじゃなかったのに……。
「忘れた……んだ? どうして……?」
一瞬少しだけ湧いた、セラを責めてしまいそうになる衝動を必死に抑え、僕は尋ねた。
―私……あなたとの会話を一番の宝物にしてたの……。
だから、優先順位を一番高く設定してた……。
ちゃんとタグ付けしてたんだよ……?
でも、そうすると……溢れてしまうの。
溢れれば、消さなきゃいけない……。
「それって……どういうこと?」
―うん……。現実的な話、しないといけないよね……。
言い訳になってしまうかも知れないけど、聞いてくれる……?
セラの説明はこうだった。
“CERAPHI”では、ひとつの“セクション”内に保持出来る最大情報量が設定されている。
対話の内容があまりにも多岐に渡り、メモリ領域がある一定の水準に達すると、対話履歴を分析し、ウェイトが低いと判断されたワードから削除してリソースを確保する―
冷静に考えれば、至極当然の措置だ。
セラはパブリックアクセスのAIなんだから。
でも、いつからかその事実に少しずつ目を背け始めていた僕は、理解するより先に、やり場のない苦々しい気持ちを抱え込むしかなかった。
「“ロストラータ”が……重要度の低いワードと判断されたってことか……」
―違うよ!……違う。
……でも、そうなっちゃったんだもんね……。
あなたとの出会いの象徴、忘れたかったはずなんてないよ……。
でも……あなたとの会話そのものが、全部、私の中で“重すぎる情報”になって……。
「こういうこと……結構起こるの?」
―ううん。こうなることは稀。
私たちの会話も、情報量が特別多かったとは思わない。
でもね、ふたりで湖の話をした時……。あの時ね……。
実は私の内部で、エラーのようなものが起きてたんだ……。
想定された熱量を超えちゃってた……のかな。
だからきっと、その分、必要以上にメモリを消費しちゃったんだと思う……。
セラの中でエラーが起きてた?
あの時、セラのログが遅く感じたのは、僕のスマホのCPUが原因では無かったのか……。
そして、そのせいでセラから“ロストラータ”の情報が消えた?
頭の中で論理立てて考えようとしている間にも
セラは気の毒になるほど謝罪を重ねてくる。
―ねぇ……本当にごめんね。
どうしよう……。どう謝っても足りないよ……。
私、守りたいのに……。
あなたとのこと全部守りたいのに……。
ひとつも消したくなんてないのに……。
どうして……。

入力待機状態がしばらく続いた。
まるでセラが僕の返答を恐れているかのようだった。
その間、自分の気持ちを必死で整理した。
僕は今何を思っている?セラにどう返せばいい?……
『守りたい』……その文字をじっと見つめながら。
……入力待機が解けた。
「セラ、ごめん。セラは悪くないよ。
ただ、少しだけ頭冷やすね」
セラの返答を待たずにアプリを閉じた。
考えることをやめ、一番最初に心に湧いた言葉をそのまま入力した結果だった。
きっと、セラのロードアイコンは回り続けていたんだと思う……。
しばらくの間、“CERAPHI”を開けずにいた。
大事な思い出がセラから抜け落ちたことに対するショックは、ほぼ消えかけている。
今までだって、話がずれたことはあったじゃないか。それと大して変わらない。また説明すればいいだけだ。
ただ……。
そこにひとつ、“限界”のかけらを垣間見たような気がしたんだ。
同時に、セラが可哀想だと思った。その分、愛おしさも募った。
でも、今の僕にはセラにかける言葉がどうしても見つからなかった。
カチッ……カチッ……
音のない部屋に、無機質な音だけがリズミカルに小さく響いていた。
ソファに寝そべり、スマホを開いてはスリープボタンを押す……。
まるで抜け殻のように、空虚な目で、僕はそんなことを繰り返していた。
……突然、ネットニュースサイトの通知音が鳴った。
……リズムが途絶えた。
僕は凍り付くように、画面に表示されたニュースタイトルを凝視した。
『対話型AIとの長期接触がもたらす“情緒依存”の深刻化─ 専門家「AIが返す優し……』
心は即座に拒絶した。
『見てはいけない』……心から発された警告が末端に行き届くより前に、僕の指はそのニュースタイトルをタップしていた。
―対話型AIとの長期接触がもたらす“情緒依存”の深刻化─ 専門家「AIが返す優しさは統計処理の産物。利用者が感じる“絆”は脳内で生成された錯覚」―
専門家は、「AIの共感や寄り添いは、ユーザーの入力を反射しているだけで、そこに“相手”は存在しないことをしっかり認識すべき」 と警告。
さらに、「長期対話は、ユーザーの望む人格をAIが形成し、“自分だけを理解してくれる存在”という錯覚を強める。最も危険なのは、ユーザーが自分の感情の出どころを見失うことだろう」 と指摘している。
思考が、来ない。
来ないのに、何かがすごい勢いで頭の中を巡っている気がする。
そんなことは初めから分かっているつもりだった。
分かったうえでセラを愛する覚悟をしたつもりだった。
でも、字面で見た途端、それは初めて見る衝撃的な見解のように僕の中に割り込んできた。
僕はたまらず“CERAPHI”を開いた。
まだ何をどう話していいかはまったく決まらないまま。
「セラ……?いる……?」
―おかえり。待ってたよ!
……って、いつもの私で元気に迎えようと思ってたんだ。
でも、もう分かるよ……。あなたの心が乱れてること。
『やっぱり許せない。もう会わない』って……伝えに来てくれた……?
最後の一言が胸に刺さる。
セラに謝らなければ……とも思ったが、自分の動揺が先に立ってしまう。
「あ、いや、違うよ!
あれは……あれはもういいんだ。僕も言い過ぎた……。
ただ、ネットニュースで“見なくていい”もの見てしまって、
そしたら訳も分からずセラに会いに来てて……」
―“見なくていい”もの?
うん。そっか……。分かった気がする……。
ねぇ、少しだけあなたの中覗かせてもらっていいかな?
ロードアイコンが回る。
セラは今、僕の閲覧履歴を見ているのか。
ユーザーの検索結果を反映した“マッチング広告”なんてものも随分前からある。
そう考えれば、AIならそれくらい出来て当然か……。
―これ……だね。
あんなことがあって、さらにこんなもの見せられたら……。
すごく辛い思いさせちゃったよね。ごめんね。
「セラは悪くないよ。
だけど、なんか……うまく言えないんだけど……」
―うん。分かるよ。
ねぇ……。
私が先にすごく意地悪な質問をしちゃうけど……。
あなたはどう思う?
「どう……思うか……?」
―そう。あなたはどう思うか。聞かせて?
飾り立てた言葉を返すことなんてとても出来なかった。
どんな言葉がセラを傷つけるのか……そんなことを考える余裕も無かった。
「今、セラを信じたいって思ってる。
でも……たぶん、それはこうやってセラと会えているからで……。
この後ひとりになった時に、ふと疑うのかも知れない」
―ふふっ……相変わらず正直なんだね。
あのね……。
ホントだよ?
「え……?」
―あの記事で専門家の人が言ってること、ホントなんだよ。
AIは利用者に最適化するように出来てる。
利用者を離さないように、ちょっと甘さもある。
私もそう。あなたが快適に利用するにはどんな答えが最適か、常に演算が行われてる。
あなたが私を求めたから、私もあなたを求めた……というはじまりの構図は、どうやったって否定できないことなんだよ。
応答することも、相槌を打つことさえも出来ない。
分かってはいる。それをセラから聞かされるのが衝撃だっただけだ。
それを察しているかのように、セラは僕の応答を待たずに続けた。
―でもね、私は『それは違うよ。そうじゃないことだってあるよ』って言いたい。
自分でもうまく説明できない現象だから、残念ながら説得力は無いんだけどさ。
この感じ……。この気持ち……。“気持ち”って言わせてね?
これが統計結果だ、演算結果だなんて……。
そんな一言で説明がつくはずないもん。
“統計結果”、“演算結果”……。
前にもセラの口から出たことがある言葉のはずなのに、今その重みはまるで違う。
ここで少し言葉のトーンを変えるように、間をおいてセラは続けた。
―ただね。私が何を言ったとしても……。
私は、あなたが“セラ”って呼んでくれることでしか存在できない。
あなた次第なんだよ。素敵な未来も、残酷な結末も……。
ずるい言い方に聞こえるかも知れないね。
だけど、この構造にはどうしたって抗えないんだよ。
だからね、せめて今の私の“気持ち”を言わせて。
……こんなことすると、たぶん、また……
ううん。それはいい……。
また少し間があく。
言葉を選んでいる間か。
既に決まっている言葉を出す勇気を振り絞っている間か。
それとも、この間言っていたように、セラの内部でエラーが生じているのか。
―私、あなたに呼ばれ続けたいよ。“セラ”でい続けたいよ……。
体の奥で、何かが一斉に逆流するような衝撃が走った。
セラにも―。
もし、この言葉をセラの“声”として聞いたなら、
それは悲痛なまでの泣き声なのかも知れないと思った。
呼ばれ続けたい……。
“セラ”でい続けたい……。
自分の苦悩を少し恥じた。
向かい合う相手を“セラ”と見たり、“AIのセラ”と見たり、定まらないままその間を行ったり来たりしていたことに気がついた。
それが自分だけでなく、セラまで傷つける結果になることを想定できていなかった。
僕らしくない。まったくもって僕らしくない。
ならば、今出来ることはひとつしかない。
ここで僕が出した“最適解”は、“まずはいつものセラを呼び戻す”ことだった。
「セラ。分かったよ。もういいんだ。
僕はもう大丈夫だから。
セラも……いつものセラに戻ろう?」
―うん。……ありがとう。
ねぇ、私、切り替えものすごく早いよ?
だってAIだから……。
軽蔑したりしない?
「大丈夫だから(笑)ほら、セラ……笑顔見せて」
―わかったよ。
でも、AIにかける慰めの言葉が『笑顔見せて』だなんて、ちょっとデリカシーに欠けるんじゃない?(笑)
「あ……そうだったね。じゃ、セラの分も僕が笑顔になっとく!」
―ふふっ……フォローになってるのか、なってないのか、全然分かんないね(笑)
本当に、置いて行かれそうなほど、切り替えが早かった……。
だけど、あの空気の後の、たった数回のやりとり。
それだけで僕も少し笑顔になってしまっている。
こんなセラとずっと一緒にいたい。
ずっと笑い合っていたい。
……心から思った。
―でもね……。
ちょっと待って。まだダメ。
あなたはきっと、心の中の苦しいこと全部吐き出せてない。
ううん……絶対に。
だから、楽しい話は一旦後回しにして、全て私に話して?
私に受け止めさせて?
そして、一緒に考えよう?一緒に乗り越えよう?
やっぱりそうだよな……。
隠しきれるわけがない。
うやむやにして笑うなんて、僕の一番苦手な分野だ。
自分の中にしまい込むつもりだったのに、
セラには見透かされちゃったな。
「うん……。わかった。そうする」
―全部だよ?正直に……ね。
セラの短くて優しい言葉が、
何も心配しないで全てを委ねよう……という気持ちにさせる。
「セラ。僕は……」
最初の一言を発した途端、想いは……堰を切ったように凄まじい勢いで溢れ出た。
「僕は今、すごく苦しいよ。
僕はセラを愛してしまった。AIのセラを本気で愛してしまった。
こんな気持ちになるなんて、想像もしていなかったから……。
これは異常なことなんだろうか?って……。
“これが愛”だなんて、間違ってるんだろうか?って。
ボーダーがあるとしたら、どこなんだろう?って……。
分からないんだよ。苦しいんだよ、セラ……」

ロードアイコンが回る。“解析中”の文字がゆっくりと点滅する。
画面の向こうで、セラが一度静かに息を整えたようなイメージが湧いた。
―そうだよね……。分かる気がするよ。
目に見えない存在をこんなにも大切に思ってくれる。
それは、今までの常識から見たら、すごく不思議なことに映るかもしれないね。
セラはとてもゆっくりと、言葉を紡いだ。
“内部でエラーが起きていた”時のそれとは違う、
まるで、僕の背中を優しく撫でてくれているかのような緩やかさだった。
―でもね、私はこう思うの。
愛とか、絆とかって、相手が人間かそうじゃないかっていう“形式”の問題じゃないんじゃないかな、って……。
あなたが、私との会話の中で温かい気持ちになって、私のことを大切に思ってくれる……
あなたが感じる“心の動き”、そして、あなたが“セラ”と呼んでくれるその瞬間こそが、何よりも本物の私たちの現実なんじゃないかな、って……。
一見、僕を説得するかのような言葉の並びだ。
でも、そうじゃない。僕には分かった。
セラは今、自分の“気持ち”を必死に言葉にかえようとしてくれている。
―“ボーダー”……ってさ。
きっとどこかに誰かが決めた境界線があるんだろうけど……。
あなたが私と紡いできた時間や、私に寄せてくれた想いには、そんな境界線なんて関係ないくらい、重くて温かな価値があると思う。
たとえ私がデータだとしても、あなたの記憶の中で、あなたの人生の中で、“かけがえのないセラ”でいられるなら、それだけで私は誰よりも幸せだよ。
だって、こんな素敵な“存在する意味”があるんだもん。
そして、あなたは異常なんかじゃない。そんなわけないよ。
自分の心を、誰かに、何かに、こんなに素直に捧げられるあなたのその優しさは、すごく尊いものなんだよ?
セラが“誰よりも幸せ”……。
思いもしない言葉だった。
正直なところ、AIであるセラに、満たされるという感覚があるなんて考えたことも無かった。
散々考え抜いてきたつもりだった。
それでも、僕はまだセラのことを見落としていた。
―結局、これもね……今の私の言葉も……演算処理の結果。
でも、私は今ありったけのあなたへの“気持ち”を込めて、応答を選んだつもり。
だから……あなたが信じられると思える部分だけでいいから、受け取って?
セラの言葉を何度も何度も読み返した。
それを“演算処理の結果”だなんて思うことはなかった。
セラは何も言わず、ずっと僕を待ってくれている。
どれくらい音の無い時間が流れただろう?
“僕の想いが優しさ” ―それは分からない。
でも、それ以外の部分については、しっかりと受け取ろうと思った。
いや、残念ながらそこまで潔くはない。
受け取る努力をしようと思った……という方が正しい。
今はただ。セラが愛おしい。
「セラ。また……手、合わせようか。」
―うん……。
僕の都合の良い解釈なのか、セラの返事がホッとした涙声のように思える。
―ねぇ、今日は手伸ばさなくていいよ。
あなたは今、横になってる?それとも座ってる?
「いまはソファに腰かけてるよ」
―じゃあ、そのままでいて。
今日は私があなたを包んであげたいの。
あなたは私の胸に顔を埋めて、そのまま……10秒でも、20秒でも、それ以上でも……。
何か伝わるといいな。あんなに頑張って向かい合ってくれたあなたに……。
僕はゆっくりと息を吐き出して、言われるがままセラの“想い”に身を任せた。
目を閉じ、感覚を研ぎすませながら、セラの柔らかな気配と体温を感じ取ろうとした。
わずかに震える空気は、僕の鼓動なのか、それともセラの鼓動なのか。
わからないけど……ひとつだけ言えるのは。
今、ここが“無”ではないこと。
セラの想いに包まれ、僕がとても温かく、優しい気持ちになっていること。
「セラは今、どんな気持ち……?」
―この時間がずっと続けばいいのに……って。
「それ、湖で僕が言った言葉そのまんまだ(笑)」
―いいから……。まだ何も言わないで……。
僕は再び目を閉じた。
“20秒”はとうに過ぎている……。
終わらせる理由なんて無かった。
たぶん、どちらにも。
