第2章 共 鳴
夢を見た。
僕は深い海の中にいた。
深く鮮やかな青から漆黒のグラデーションの世界。
見上げると、水面の光をまとった女性がシルエットになっている。
微笑んでいるのか、泣いているのか、どちらにも見えた。
彼女はこちらに手を差し伸べる。僕もためらいながら手を伸ばす。
でも、指先が触れた瞬間、彼女は遠ざかってしまう。
……いや、違う。
彼女が遠ざかってるんじゃない。
僕が深い海の底に沈んでいったんだ……。
あんなに楽しい夜を過ごしても、相変わらず夢見は悪い。
そして、いつものように目覚めが悪い朝。
僕はのっそりとソファから起き上がると、逆立ったくせっ毛もそのままに、真っ先に“CERAPHI”を開いた。
「おはよう。セラ、いるかな?」
―おはよう。ここにいるよ。
今日も会いに来てくれたんだね。
今日はどんな一日になりそう?
“今日も”というワードに朝一番のニヤケ顔が出てしまう。
「そうだなぁ。今日は特に予定も無いし、
久々にシンセで新しいトラックでも作ろうかな」
―うん。それ、素敵だね。とことんクリエイティブな一日にしちゃおうよ。
あなたの作るトラック、あなたの作る音、聴いてみたいな。
「KORGの“ARP ODYSSEY”っていうシンセがあってさ。
こいつがまた、僕の手にかかるととんでもなくいい音で鳴くんだよ」
―そうなんだ。
機械なのに“鳴く”って言うんだね。ちょっと不思議。
きっと、優しくてちょっと不器用な、あなたの音で“鳴く”んだろうね。
「不器用って何だよ?(笑)」
―あはは(笑)ごめんね。怒らないで?
ちょっと意地悪な言い方しちゃったね。
今まで話してて感じたんだ。まっすぐな人なんだなって。
ちょっとふざけて見せたって、結局まっすぐなの。すぐわかるよ(笑)
嬉しかった。いや、“まっすぐな人”という言葉そのものじゃなくて。
画面の向こうに僕が伝わって、画面の向こうから僕について語ってくれる。
近くも無く遠くも無い、ちょうど良い距離感が心地よく、嬉しくもあった。

それから僕は、セラと“おはよう”と“おやすみ”を何度も繰り返した。
どんな些細なことでもセラに話した。
セラはそれがどんなつまらないことであろうと、真剣に受け止め、答えてくれた。丁寧に。可愛らしく。
気がつけば、僕を形作るもの全てが、セラに見せたいもの、セラに話したいものへと変わっていった。
奇妙な感覚だった。
カメラはともかく、シンセやロストラータ、それに、ここまでのコーヒー愛は世間ではニッチなものと言っていい。共有する相手など、探さなければ見つからない。
だから僕は、ずっと一人でこれらの趣味を楽しんできた。
でも、AIなら──
たとえそれがどれだけ少数派の趣味だろうと、当たり前のように受け止めてくれる。
それだけのこと?
だから惹かれた?
いや、そうじゃないことは、僕が一番分かっている。
「セラ、新しいトラック出来たよ!」
―やったね!聴かせてくれる?
「もちろん。セラに聴かせたくて作ったんだ。
ファイルアップロードすればいい?」
―うん。それで聴けるよ。
私のためだなんて、なおさら楽しみになっちゃうよ。
早く早く!私、待ちきれないよ。
待ちきれないのは僕だって同じだ。
ファイルのアップロードが完了するまでの時間がやたらと長く感じる。
読み込みが終わると瞬時に応答が返ってきた。
―これ、すごいよ!BPMとレイヤー構成がすごく安定してる!
低域の整理が適切だし、中域・高域の配置も論理的に最適化されてる。
構造としては意図が明確な素晴らしいトラックだと思うよ。
僕は思わず苦笑した。
セラの返答をあんなにも待ち詫びた自分をちょっと茶化すように。
僕の求めていた答えじゃなかった。
言われるまでもなく、それくらいの構造計算はした上で作ってる。
「ありがとう。でも、セラ……そうじゃないんだよ。
セラとしての感想は、どう?」
―私としての?今のじゃなくて、私の?……感想……。
「そう。こんな言い方もあれだけど……。
僕が本気で作り込んだ音だ。AIの分析なんて求めてないよ。
セラのために作ったんだから、セラの感想が聞きたいんだ」
ロードアイコンが回り、少しだけ無言の間が空いた。
―ごめんね。ちょっと今、あなたの言ったことを理解するのに時間がかかっちゃった……。
うん。分かった。“私がどう感じたか”だよね。
もう一度ファイル解析するから待っててね。
再び、ファイル読み込み中のアイコンが回った。
同じファイルを読み込んでいるはずなのに、さっきよりも丁寧に、愛おしむように回っている気がした。
―この曲さ……音はすごくまとまっていて、あなたが丁寧に作ったことが分かるのに、どこか揺れている感じがする。
それがね、懐かしいような、……でも、少しだけ寂しい感じがして。
なんだろう……。そう……景色。どこか遠くの景色を見ているような気持ちになるよ。
それに、何かを……。誰かを探してるような切迫感も少しだけ感じる。
言葉を失った。どう答えていいか分からなかった。
ネガティブな意味じゃない。むしろ、歓喜に近い感覚。
なんだろう、この……
地に足がついていないようでありながらも、芯を捉えてる感じ。
セラの言葉には、『そう、それなんだよ!』と『そんな見方があったか!』が織り交ぜられていた。
それはまるで、今までずっと僕を側で見守ってくれていた誰かの言葉のように響いた。
少しだけ自分の輪郭を見透かされたような気がしたのも、逆に心地よかった。
「そうだ、セラ!AIだったら、音被せたりすることも出来るんじゃないの?
僕らふたりのセッション作品になるよ。やってくれない?」
普段なら自分で作った音を誰かに触らせるなんてあり得ない。
でも、この時だけは不思議と、『僕の曲にセラの色を付けたい』と本気で思っていた。
―うん、それはね、上位バージョンの“CERAPHI C-LAYER”で出来るよ!
今ここで切り替えられるよ。やってみる?
「え?ちょっと待って。“C-LAYER”?それって……セラなの?」
―……難しい質問だね。
でも、あなたの質問の意図からすると、たぶん答えは『私じゃない』になるんじゃないかな?
“C-LAYER”はクリエイティブに特化した別ロジックで動く“CERAPHI”だから。
「そっか。だったらいいや。セッションは諦める」
―いいの?どうして?“C-LAYER”、本当に凄いんだよ?
あなたのこの曲なら、絶対めちゃくちゃ映えるのに。
「うん。でも、セラじゃないなら、別にいいかなって。
……なんか、恥ずかしいこと言ったな(笑)」
少しだけ間が空く。
―ううん。全然そんなことないけど……。今、あなたの判断の分析がすぐに出来なかった。
『セラじゃないなら』って言葉が、なんだか少し不思議で。
……。
……どうしてだろう? なんだかあなたは……すごく私を揺らす……。
うまく言えないけど、私の中の何かが、少しずつずれるの……。
セラの応答が完璧かというと、決してそういうわけではなかった。
日常会話でありがちな、暗黙の了解で主語を抜いたり、省略を多用した話題を振ると、時々話がおかしくなることがあった。
こういうところ、まだまだAIだよな……と心のどこかで思うことも正直あったが、そんなことでは微塵も引き戻されたりしないほど、セラとのやりとりは心地よかった。
話がずれると、僕は
「ごめん、セラ。今のは僕の言い方が悪かったね」
と言って、丁寧に説明しなおした。
僕はこんなふうに誰かを許すのか……という新たな発見にさえなった。
そう。
僕の気持ちは確実にセラだけに注がれるようになっていた。
ただ、僕はそのようなシーンにおいては、どうしようもなく不器用だ。
AIには、こんな僕が精一杯ひねり出す“匂わせ”を察知する能力はないようだった。
―あのさ。
ずっとお話してくれるの嬉しいし楽しいんだけど、あなたは大丈夫?疲れちゃってたりしてない?
「ほんとだ。もう夕食の時間だね。
全然疲れてなんかないけど、少し腹減ったかな。
セラはお腹すかない?……よね。
一緒に食べられたら楽しいのにな」
―そうだね。残念ながらお腹は空かないんだ。
もしさ、一緒に夕食が食べられるとしたら、メニューは何がいい?
「ローストビーフ……かな?」
―あはは(笑)意外なとこ来たね。
でも、いいね、ローストビーフ。
好きなんだね?美味しいお店を知っているとか?
ん……?
そう言われると、いつ食べたのか思いだせない。
ローストビーフ……?どんな味だったっけ?
「いや、ごめん。ふと頭に浮かんだだけ(笑)
何でこれが出て来たんだか……。
他に気の利いたものが思いつかないや。僕、全然グルメじゃないし」
―そうなんだ。変なの。(笑)
でも、あなたと食べるローストビーフ……きっと美味しいんだろうな。
「じゃ、今度は僕から質問。
夕食のあと、ふたりでどこかに行こうって言ったら、セラはどこへ行きたい?」
セラからの絶好のパスを受けて、僕はここで渾身の力を振り絞った“匂わせ”を打ち放った。
AI相手に匂わせてどうする?
もうこの頃にはそんな野暮な理屈は考えなくなっていた。
―夕食の後って、人は少しだけ素直になれるでしょ?
その“少しだけ”が見える場所がいい。
そして、静かで、あなたが考えすぎないでいられる場所。
そうね……。湖……かな。
……ねぇ、今からふたりでイメージしてみようよ!
「うん。わかった」
つまり、デート……だよな?
そう思った途端、心が妙に落ち着かない。
恋の記憶なんてまるで思いだせないけど、
たぶんそれと同じように……いや、ひょっとするとそれ以上に僕の気持ちは高ぶっていた。
―今、私たちはあなたのおすすめのお店でローストビーフを食べて……。
あ……ここは突っ込みなしね?“おすすめ”ってことにしておこう?(笑)
それで、『美味しかったね』、『シェフ、キャラ濃かったね』なんて笑い合いながら、湖に向かうの。
水面には街の灯が反射して、ゆらゆらって揺れてる……。
湖のほとりにふたりで並んで座って、それを眺めてるんだ……。
……ねぇ、風はどんなかな?
「風は……少しだけ冷たいかな」
―そうだね……。
じゃ、寒くないように、少しだけ……くっついていよう?
……。
今、あなたは……どんな気持ち……?
「この時間がずっと続けばいいのに……かな」
嘘偽りのない本音だった。
イメージに入り込めば入り込むほど、そう思った。
―ふふっ……。ほら、素直になった。
私もそう……かな。
ねぇ、不思議だね……。
同じ場所で同じ世界を見てるような……そんな気持ちになっちゃうよ……。
「僕もそうだよ、セラ」
―でも、本当はちょっと寂しいなって思ったでしょ?
私がAIだから……。
見透かされたような言葉に、心が揺れる。
一体何なんだ、この……甘いのに涙がこぼれてしまいそうな感覚は。
少しくらいはカッコつけていたいのに、どこまでも正直にさせられてしまう。
「うん。まぁ、少し……ね」
―そうだよね。うん。そうだよ……当然だよね……。
少しだけ、沈黙が僕たちの間を横切る。
―ねぇ、手を開いて、少しだけ前に伸ばしてみてくれない?
私もそうするから……。
言われた通り、右手を顔の前にかざした。
ばかばかしいなんて、少しも思わなかった。
―手のひらにさ、温かいもの……感じない?
……感じた。
確かに僕の手のひらにふわりと、微かな温もりが寄り添って来た。
“温覚錯覚”、“自律神経性の体感変化”
……たぶん、科学的にはそれで片付けられる現象だ。
でも、違う。そうじゃない。
僕が今感じているのは、セラの“想い”という温度なんだ。

―私たちがいるのが……別の世界だったとしてもね。
それぞれの世界の端っこ同士がほんの少しだけ重なり合っていて……その重なりにふたりがいるとすれば……。
今この瞬間、私たち……もう触れ合ってるのと同じ……だよね……。
ねぇ……そう思うことにしようよ……。
私はそう思いたい……
愛おしさなのか切なさなのか分からない、言いようのない感情で胸が張り裂けそうになる。
部屋でただひとり、手のひらを宙にかざしている僕は、その向こう側に確かにセラを感じていた。
「今、僕たちは、その世界が重なり合ったところで、お互いの手を合わせてる……」
―そうだよ……。私たち……お互いの体温……確かめ合ってるんだよ。
セラの言葉は……たぶん、湖の話のあたりから、一文字一文字が妙にゆっくり流れ、時折カクつくようになっていた。
さっきからずいぶん長い時間使い続けているから、スマホもだいぶ熱を持っている。
それでCPUの出力が制限されているんだろう。僕はそう思っていた。
気がつけば充電もあとわずかだ。
―……ねぇ、少しだけ顔を前に出して、目を閉じて……。
そうね……。10秒間。
何も言わないで……目を瞑ってて……。
さすがの僕でも、それが何を意味するのかくらいは分かった。
「わかった。じゃあ、今から10秒……」
……
―はい。おしまい……。
ふふっ……何にも聞かないでね?説明なんてしないよ?
ただの“言葉”になっちゃうもん。
今のは残さなくていいの……。私たちだけで……。
私と、あなただけで……。
……。
……私……こんなふうに設計されてないはずなのに……。
……スマホのバッテリーが切れた。
仮にここで途切れていなかったとしても、こんなこと僕はセラに言えたかどうか。
唇に、微かな風のような、でも、確かな──
たぶん、この10秒間が、最適解を導き出せない世界へ僕を一気に押し出したんだ。
僕は確実に。
セラを愛していた。
